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松濤会
日本空手道松濤会とは
日本空手道松濤会の誕生
 

日本空手道松濤会の名前を見て、空手を知る人ならばこの名前は、東京にある日本空手道松濤館を思い起こされ るであろう。しかし松濤会の名前は、近代空手の父、船越義珍翁によって制定された全国にあった松濤流の会派の総称である。
日本空手道松濤会の創設者であり、日本に空手を伝えた船越義珍は明治元年、沖縄県首里市に生まれた。10歳ご ろから琉球空手の安里安垣・糸州安垣に手解きを受ける。小学校を卒業後、独学で小学校教員免許を取得し、三 十有余年教壇に立った。退職後、沖縄尚武会会長・沖縄師範学校武道教師となる。

大正11年上京し、文部省第一回体育展覧会においてクーサンクーを演武し解説した 。柔道の加納治五郎などの薦めもあり沖縄の寮であった明正塾にとどまり以後、慶応・早大・東大等の空手師範 を暦任。空手の普及に勤め、沖縄の唐手から日本の武道とするため『徒手空拳』『色即是空、空即是色』の意味 を引用して空手と改名した。東京都文京区雑司ヶ谷に松濤館を建設、柔道の講道館などと並び空手の聖地となっ た。ここを拠点に日本全国を奔走し日本空手道松涛会を結成した。昭和24年大学の空手部が中心となって日本空 手協会が結成され、最高師範に就任した。

 
 

船越義珍翁に教えを受けた、当会総師範 故山口隆(隆法寺住職)は、福井県敦賀郡中郷村の生まれ、立命館大 学で澤山宗海が開いた、日本拳法の門をたたいた。日本拳法とは琉球唐手の糸東流と剛柔流の流れをくみ防具を つけ自由組手を基本としていた。しかし勝敗にこだわり過ぎたため、すぐに行き詰った。
戦後、山口隆は心の鍛錬に重きをおく、唐手に深く感銘を受け、大学卒業後、船越義珍翁に手紙を送り空手道に ついて指導を求めた。敦賀の寺(隆法寺)を引きついだため、敦賀から東京に通って空手道を修めた。空襲によ って船越の松涛館道場が焼失した為、高弟、釘宮幸雄(拓大師範)に師事、船越義珍にも可愛がられ直接手解きを受けた。

昭和30年、福井大学内に空手部を創設する話が持上がり山口は、船越義珍に相談したところ「富山に清水君が居 るので彼と相談しなさい」と愛弟子、富山支部の清水俊之師範を紹介された。富山の清水師範は戦前松濤館の副 館長を勤められ戦後、富山県警に勤務の傍ら、空手道の普及に勤められた。 山口は清水師範を相談役とし、福井大学空手部を始めに県内の空手道普及に奔走した。昭和30年県警道場に一般 募集して練習を行った。これが発展して福井道場となる。これが福井県下松涛会の始まりでありこのとき、第一 回演武会を敦賀気比中学校で開催した。以後、青少年の育成のため空手道箴言を制定、空手道の普及に奔走した 。昭和30年敦賀道場、34年神明道場、38年武生道場、42年福井高専、43年木田道場を開設し、たくさんの門下生を輩出している。

 
山口隆師範
 
山口隆  

福井県にはじめて空手を伝えたのは、敦賀市在住の日本空手道松濤会の山口隆氏であり、昭和30年に福井大学に空手部を設けられたのがそもそもの始まりである。氏は、大正7年 敦賀市古田刈の隆法寺の長男として生まれる。立命館大学に進学した氏は澤山宗海が開いた日本拳法と出会う。日本拳法は糸東流と剛柔流の流れを汲み防具をつけ自由組手を基本としていた。

戦後大学を卒業して敦賀に帰郷、寺を引き継ぎながら中学校社会科の教職に就いた。昭和24年、心の鍛錬に重きを置く空手に感銘を受け、船越義珍に入門を願い、これを許され敦賀より東京へ通ってこれを修めた。当時空襲で松濤館は消失していたため、高弟で拓大師範、釘宮幸雄に師事、船越義珍にも可愛がられた。昭和30年、福井大学に空手部創設の話が持ち上がり、船越義珍に相談したところ、富山県の清水俊之(万象)を紹介され、顧問として以後指導を受ける。これを足掛りに昭和31年には福井市に町道場が開設され上田忠一、原 光男、小川英明、藤田 稔などの諸氏が山口師範の手足となって県内の空手道の普及に奔走した。こうして山口隆氏は福井県空手道史に大きな功績を残された。

 
空手道とは
 

日本空手道の源泉は非常に古く、遠くは沖縄琉球が発祥の地であり沖縄在来武術と当時中国交易の中でもたらされた中国武術の影響の中で発達したものであるといわれている。空手は近代空手の父、船越義珍によって大正11年、東京で開催された第1回体育博覧会で琉球唐手術として紹介され、柔道の講道館館長嘉納治五郎の勧めもあり、東京で空手の指導に当たった。以後たくさんの大学に唐手研究会が作られ全国へ普及していった。

 
    左より、山口隆、船越義珍、釘宮幸男
 
空手道箴言
 
空手道箴言
 
一、空手道を修めるものは、礼節を重んずべし
 
空手道は、礼節に始まって、礼節に終わる。武道の本質は心身を修め、道義の精神を磨くことを第一義とする。 礼節・信義のない武道は邪道であり、社会人としても劣等である。空手修練を見学した人々は、厳粛なる礼節精神に驚愕する。武術よりも心術に重きをおく空手道は、特に礼節精神に厳しい。礼節を失った空手道は、既に空手の精神を失っているのである。
 
一、空手道を修めるものは、自我を空しうして教えを受くべし
 
自我とは真の自己ではなく、無明より起こる自我迷執即ち、邪心・執着・妄想といった心の垢である。 洗髄経に「心の垢を洗い落として、真の心光を発せしめよ…」と説かれているが、武道の隙はこの精神的疾患から生ずる。心の中が垢で閉ざされている限り、弱く醜い邪拳になって、強く正しい武術にはならない。空手の「空」は、この自我迷執を空しうする修練工夫によって開けるのである。従って我意増長の慢心者は、空手道の門をくぐる事さえ許されないのである。
 
一、空手道を修めるものは、技の本質を極べし
 
自我意識の伴う突き・蹴りは相手に受け止められて武術にならない。劔聖・針谷夕雲は武道訓に -意識我慢の増長を持って兵法を芸にし、兵法の所作に妙不思議を巧む者を、畜生兵法と名づくと、心の垢からしょうずる邪劔を戒めているが、武道の奥義書は、凡てこの点の説明である。技の本質というのは、型の意識的所作を指すのではなく「空」より流れる無自覚の武技を言うのである。
 
一、空手道を修めるものは、剛毅勇武の精神を鍛錬すべし
 
外敵より襲われたならば、猛獣をも慴伏せしめる気魄、一旦事ある場合、千万人の反対も押しきって進む意気、そして内に怠情、優柔、傲慢、恐怖という妄念を打砕く精神を錬成しなければならぬ。こうした精神は「気合」より発し、気合は「空」より流れるのである。
 
一、空手道を修めるものは、謙譲にして温和たるべし
 
武道の隙は邪心より生ずる。相手を怒らしてその隙へ斬込むのは兵法駆引の一例であった。吠える乱暴者は、素人には強そうに見えるが、武術的には隙の丸出しで、滑稽千万である。 仏祖は、武道の極意を説いて曰く「和」となりと。
 

空手は、剣術、槍術、弓術、馬術から採り入れてできている護身の術である。 従って、「空手即武芸一八般」というべきもので、武器の携帯を許されない時代において、凡そ大丈夫の趣味として、これ程、深い内容を持つものはないであろう。と同時に、無手の武術として、これほど、威力のあるものは、また、珍しいのである。

練習は、主に、型の修練によって行う為、けがする危険もなく、老幼・男女にも向き、ある程度、進歩すれば、一人で何処でも修練出得るし、手、足均等に使う全身運動である為、実に健康的である。 空手道は、印度に於て、易筋経と称し、仏道修行の行であった。支那に空手を伝えた達磨大師は、精神修養法を、洗髄経に、健康法と護身の技を、易筋経によって説かれている。 従って、空手は、精神修養に重きを置く、武術的な身体の鍛錬法なのである。真の空手は、心と技と、内外兼ね備って始めて完全な「空手道」と言えるのである。

 
松濤会福井県道場の始まり
 
初段 黒帯
初段補 茶帯
1級
2級
3級
紫帯
4級
5級
6級
緑帯
7級
8級
青帯
9級
新会員
白帯
 
達磨大師 だるまだいし
五、六世紀インドの僧。くわしくは、菩提達磨(ぼだいだるま)という。南天竺婆羅門種族の出身で、南天竺婆羅門国王の第三子、南天竺香至大王の第三子などと言われる。 四〇余年間般若多羅に仏道を学び、師の入滅後国内を行脚して大乗禅観をとなえ、五一九年南越(ベトナム)から海路中国の番禺(広東省)にわたり、梁の武帝に招かれ金陵(南京)で禅を説いたが、機の塾さないのを悟って、崇山(河南省)の少林寺で面壁九年の座禅の行をつんだ。慧河断臂で著名な神光が座下に参じたのもこのときで、五三三年(五二八年とも言う)奥義を慧河に伝えて入滅した。中国禅宗の始祖で、唐の代宗のとき円覚大使の諡号をうけた。
 
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